身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ~底辺家庭の東大受験~ 

塾なし公立中高一貫校合格。2024年塾なし【東京大学】受験。低学歴・低所得家庭の挑戦

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貧困親子が紡ぐ絆の物語 貧困の連鎖~⑥競争が生じる評価~

 

 

東大受験に塾なしで挑む!底辺家庭の子育て体験談

 

競争が生じる評価

 

過酷な競争

 

世の中には多くの競争が存在している。

 

パッと思いつくだけでも、学業、スポーツ、ビジネス、エンタメがある。

 

もう少し深堀りすれば、政治、市場、労働、文化、技術などがあり、それらは国の競争にも繋がっている。

 

こう考えると、人は生まれた瞬間から競争の中に放り込まれていると言え、年を重ねるごとにその現実は顕著になって表れる。

 

保育園などでも4歳くらいから

【かけっこ】という競走をするし、勝って喜ぶ子もいれば、負けて泣く子もいる。

 

このくらいの年齢では、競わせることよりも体を動かす運動という部分に重点を置いているのだろうが、「いちについて、よーい、ドン!」の掛け声と共に、誰が一番早くゴールまで行けるか?

競い合っているのに変わりはない。

 

小学校に上がれば、より競争の意味合いは強くなり、運動会の徒競走では着順まで決められ、順位によっては賞状がもらえたり、通知表の評価も上がったりする。

 

勉強も同じで、テストや成績などの学力を数字という分かりやすい指標で示すことによって、他者との比較によって競争が生じる相対的な評価がされているわけだ。

 

それは、小学校、中学校、高校、大学へと続き、就職活動の選考に於いては、それまでに培ってきた成績や適性の優劣などを鑑みて相対評価が行われる。

 

スポーツや芸能、エンタメ業界などは更に過酷な競争を強いられているだろう。

 

身体能力は生まれ持った要因が大きく、そこに体作りのトレーニング、競技による技術、メンタルが加わり、更に怪我のリスクも抱えている。

 

やっとの思いでプロになれたとしても、それで終わりではなく、常に実績を出し続けなければならぬほど厳しい世界だ。

 

芸能やエンタメ業界にしても、有名グループのオーディションでは、数千~数万人の応募者がいて、その中からわずか数人の優れた人材を発掘するべく、才能や表現力、その人の魅力などを比較して相対評価で選ぶわけだ。

 

このように、人より優れたもの、秀でたものを持っているか、いないかで適性というものは変わってしまい、特定の分野で活躍することは難しくなってしまう。

 

目にする機会の多いこのような世界は、華々しく多くの人に夢を与える素晴らしい職業だが、日常での人目に映らない

影の努力こそが大事で、その労力は並大抵ではないのだ。

 

その点、これらに比べて学力を付けることに関しては平等だと感じる。

 

教育が十分に与えられていない多くの発展途上国や紛争地域とは違い、ここ日本では義務教育という最低限の基礎を学ばせてもらえる環境がある。

 

 

【社会に出て働くまでに最低限の教育】を与えますよ。

と、国が教育方針を決め、学力や素養を身に付けるための機会を与えてくれているのだ。

 

もちろんそれだけで十分だということではない。

 

義務教育だけでは、より高度な教育を求める経済力の高い家庭との教育格差は広がってしまうが、先ほどの教育を受ける権利のない国と比べれば雲泥の差だ。

 

むしろ、これだけ恵まれた環境の中で生活ができ、人間の基本的な権利がしっかり守られているのだから、自分の置かれている環境を言い訳にはできない。

 

日本の義務教育は誰にでも平等に与えられるもので、学校に行って授業を受けている時間は全員が平等だ。

 

この義務教育で与えられた基礎が、高校以降の教育の重要な基盤になるのは間違いないのだから、ここを疎かにしてはいけない。

 

自分の置かれた環境で教育の格差ができてしまうのは事実だが、環境を言い訳にしても子どもの未来が明るくなることはなく、むしろ何もしなかったら待っているのは不幸しかない。

 

そうやって言い訳を繰り返すから、貧困の連鎖は続いていくのだ。

 

教育の格差を埋めるのはお金ではない。

 

お金を使うのは手段であり、絶対ではない。

 

教育の格差を埋めるのは家庭であり【親】なのだ。

 

 

俺達夫婦のこの状況は、誰のせいでもなく自分達で作り出したものだ。

 

過去にやってこなかった苦労を清算するには、並大抵ではない影の努力が必要になる。

 

人は自分が経験しなければ分からないもので、それは仕方がないことかもしれない。

 

しかし、せめて自分が招いた不幸だけは、何の関係もない子どもに背負わせてはいけない。